033.YouTubeバリバラジャーナルTV「見え始めた精神医療の実態」

033.YouTubeバリバラジャーナルTV「見え始めた精神医療の実態」
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 入院患者の圧倒的な多さと入院期間の長さから「深刻な人権侵害」と称される日本の精神医療。しかしどんな人たちが、なぜ入院を強いられているのか、これまでブラックボックスだった。実はこの実態が東日本大震災によって、明るみに出ている場所がある。それは福島。原発事故で、原発周辺の精神科病院の患者たちが大量に転院。いま、その患者たちを地元に呼び戻し、地域での生活へと移行させようと、県が動き始めているからだ。今回番組では当事者や家族の証言から社会的入院の実態を取材。精神障害者の地域移行について考えていく。
記者「精神科の患者さんなんですか?」
医師:【矢吹病院副院長佐藤浩司医師】
「精神科の患者さんだったですよね。まあ精神科の患者さんって形になったんで、精神科の患者さんでずっと過ごして来たんですね。で、今日こちらに来たんですね。通常の水準で言ったならば、入院治療も何もする必要はない。彼女は彼女で一番より良く生きる場所を探すのが一番適切な事、それだけ。」
 日本は戦後、精神障害者の隔離収容政策を推し進めた。高度経済成長時、厚生省は精神障害者が「生産を阻害する」かつ「治安のためによくない」存在だとして病院を大増設。精神障害者はどんどん入院させられることになった。そういった状況のなか、偏見が強まっていくという状況が作り出されていたのだ。スタジオゲストの【高木俊介医師】は、「この日本の社会自体がどうやって地域で精神障害の人を受け入れていいのか、わからなくなっている」と指摘する。
【精神医療の光と影】高木俊介著、日本評論社
「精神分裂病」から「統合失調症」へ
―病名変更の意義と課題(抜粋)
58~59ページ
 統合失調症の原語は、ドイツ語のSchizo-phrenieです。
 オイゲン・ブロイラー(Eugen Bleuler、1857年4月30日 - 1939年7月15日)によって名付けられた。
Schizoは、字義通りに訳すと「分裂」ですが、日本語訳に現れたような「精神の分裂」とは意味が違います。連想心理学で、たとえば、「太陽」と言えば「暑い」という連想の糸が切れ、「太陽」と「新幹線」のように関係のない物の間に連想が出来てしまう。
 つまり、Schizo-phrenieは、「連想の分裂」と言う意味で、「精神そのものが分裂した病気」と言う意味ではありません。
 ブロイラーは最初からこの病気を一つの病気として考えておらずSchizo-phrenie-郡と呼んでいました。
 今も議論があるが、最近の研究の大勢はこの病気は一つの病気ではなく、ある程度の共通した特徴はあるものの、全体の病像や経過は様々で生物学的には幾つかの違った系統の病変に属している物であろうと言う考え方になっている。つまり、病気である事を意味する「病」ではなく、「症候群」等と使われる様に単に同じ現れ方をしているのだと言う「症」の方が、訳語として相応しい。
精神医学的診断の光と影
―「診断する」とはどのような意味を持つか(抜粋)
125ページ
2 「治療する」事の意味
 治療が患者に対して行う「診断」というと、普通は病気が何かという事をはっきりさせる事、病名を付ける事のように思われる。しかし、実際の医療行為の中では病名を付ける事だけが診断ではなく、その時々の状態に対して何らかの処置を行う場合、治療者は常に何らかの「診断」を行っている。つまり、診断とは常に何らかの医療行為を行う場合の根拠を提供するものである。
126ページ
 医療行為とは、常に何らかの侵襲を伴うから、それを正当化する根拠となる診断が第三者と共有出来るものでなければならない。
 診断とは「病人の中にある本来形のない苦しみに病気と言う輪郭を与えて、自他にとって認められるものにする行為」である。
127~129ページ
 「病気」とは何らかの実態ではなく患者と治療者をつなぐ為の実践的概念であり、診断とはその概念を当面の目的に沿うように切り取って提示する事であるとすれば、診断には曖昧さが付きまとう事になる。
 精神科の診断では、顕微鏡下の癌細胞に当たるもの、あるいは患者の身体と言う物質的対象物であるものが、患者が語る言葉という言葉の概念の塊である。
 言葉で語られた患者の状態の、どこに正常と異常の境界線を引くかと言う事である。
 精神医学的診断のグローバル・スタンダードになっている
 アメリカ精神医学会の診断マニュアル(DSM:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders-精神障害に関する診断と統計の為のマニュアル)から、
 例として二つの診断基準を挙げれば十分であろう。
 うつ病:「その人自身の言明か、他者の観察によって示される、ほとんど一日中、ほとんど毎日の抑うつ基準」
 統合失調症は妄想が重要な症状であるが:「妄想の内容が奇異な場合」には他の項目を同時に満たさなくても良い、とある。
 線引き cut-off point:どの程度落ち込んでいれば「抑うつ」なのか、どの程度現実離れしていれば「奇異」なのかと言う事については、一致出来る客観的な線引き cut-off point はない。
130ページ
 さらに、診断時点で過ちが生まれやすい前提となる事情がある。それは、精神医療が対象としているものの中に、ある個人の苦しみではなく、また、それを異常と考えるかどうかとは別に周囲の人々や社会がある人の行動を正常から逸脱したものだと考えて、その為に、精神科に連れて来る場合があるという事である。これは、精神科医が診断するより先に、社会が診断しているという事である。このような場合、精神科医がしている事は、その診断の正しさを追認して専門家としてもっともらしいレッテルを貼るだけと言う事、にもなりうる。
 このような事が問題になったのは、かつて、極端な性格を持つ者に対して付けられる「精神病質」という診断をめぐっての事であった。精神医学は、それを「疾病」ではないが「正常からの偏倚」と定義する事で医学の中に位置付けた。このようにして、逸脱者を排除せよという社会からの要請と妥協したのである。「精神病質」という診断は現在も各国の法律の中に生きており、精神医学の中では「パーソナティー障害」と名を変えて生き残っている。そして、「精神病質」「パーソナリティー障害」と呼ばれるものは果たしてどこまでが「病気」として精神科の治療の対象なのか、あるいは治療出来るものなのか、さらに治療出来るものだとしても、性格を治療の対象として良いのか、現在も議論の決着を見ていない。
 もう一つ付け加えて置きたい現代精神医学的診断の乱用は、いわゆるマスコミ精神医学である。事件報道に際して、精神科医が登場する。彼らが精神医学の一般的知識を提供するのであればとにかく、往々にして容疑者を精神障害に当てはめて論じるという「診断」を行っている。彼らマスコミ精神科医は断片的な事実や事実とは限らない報道をもとにして当事者にとって致命的ともなりかねない診断を行い、さらにそこから根も葉もない筋書をデッチ上げる。彼らには、同じ診断を得ている他の多くの患者がどれだけ不快に感じどのような不利益を被るか思い至る想像力のカケラもない。


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