化け猫資料抽出

【集落形態と村落共同体―特 に讃 岐 の事 例 を 中心 に】石 原 潤
【001集村、混在耕地制、耕地団、灌漑系統、共有林、山林】
部落 の周囲には部落の農家が耕す 田畑が隣接 して存在 し,個 々の農家につ
いてはその耕地は分散 してい る(→ 混在耕地制)け れ ども,部 落員全体 の総耕地
は部落を中心に一団 となってい る。
灌漑系統 は この まとまった耕地団 と整合 して,こ こに水利共 同体 は部落 を基盤 として成 立す る
灌漑系統 は この まとまった耕地団 と整合 して,こ こに水利共 同体 は部落 を基盤 として成 立す る。更に部落 の総耕地 の外側には部落 の共有林 ない し部 落民 の私有 とな った山林が存在 して,部 落 に対す る薪炭 ・肥料 ・飼料 の供給源 とな る。

【0002共有体存立、土地の共有、生産手段の共有】
,(a)共 同体存 立の必要欠 くべか らざ る条件 として土地 の共有を中心 と し
生産手段 の共有 を考え る立場が ある。農村社会 の史 的展 開を,主 と して土地
共有→私有 化の過 程を軸に見 る立場 であ り,こ の観 点か らは近世的共 同体 はわ
ず かに共有林 の如 き部分的な土地共有体 にす ぎず,共 同体の歴 史 の中 では最終
段階 にあ るとみな され る。

【0003分散零細耕地形状ー共同体存立の契機】
(c)共同体存立 の基本的契機 はわが国農村 の混在耕地制に ある
とみなす見解があ る。主 として危険分散 に よって生 じた分散零細耕地形状が耕
地の境界 ・畦畔確定 をめ ぐって共 同体を形成 せ しめ る基本的契機 となる と見 る
のであ る。
【0004灌漑水利ー共同体存立の必然性、耕作強制、副次的に山林】
(d) 共同体存立の必然性を,わ が国農業 の中核 をなす水田耕作に不可欠 である灌漑水利 か ら主 と して説明す る立場があ る。
筆者は一応 の結論 として,わ が国農業の小農的性格 とわが 国農村に一般 的な混在
耕地制 とに 由来す る水利 を中心 とした共同諸労働及 び水利を通 じての耕作強制
が共同体を存立せしめ る基 本的条 件であ り、副 次的条件と して山林 ・耕地 等の
共有が ある と考 え る。従 って この場合混在耕地制は前述(c)におけ る如 く境界 ・
畦畔確定 を通 じてではな く,む しろ水利を通 じて共 同体存立 の基 本的条 件 とな
る と考 えるのであ る。

1) 讃岐 にお ける生産 力の発 展

【0005洪積台地、新田開発は古田に水不足、讃岐三白】 
 讃 岐には南に讃岐 山脈 が連 な り,そ の 前 面北側に低位山地が,更 にそれ を と り囲んで洪積台地が見 られ る。
封建的収奪 の強化 と技術 的発展 の限界 が生産力 の上昇を制約 し,池 の修築
等 も著 しく減少 し,単 な る現状維 持的な工事 しか行われ ない。
しか も
領 主側の意志で強行 され る新 田開発 は古 田地 域に相対的な水不足 を もた らす のであ る。
か くして18世 紀後半か ら 「水 を使 わない」商品作物 の導入 が試 み られ,讃 岐 三
と云われ る塩 ・砂糖 ・綿花 の生産 が一般化す る。19世 紀 にな ると第2の 生産
力の躍進が見 られ る。商 品作物生産 の発展は藩庫を潤 し,水 利施設 の修築 が進
み,甘 蔗 ・綿花栽培が畑地 のみでな く一部 では水田におい ても行われた事 とあ
い まって,稲 作 にお け る慢性 的水 不足 も改善 され るに至 った のであ る。
【0006階層分化】
寛 永21年(1644)宇 足 郡 坂 本 郷 切 支丹 宗 門 改 帳 に よれ ば,石 高 合 計2,803石

76,家 数 大 小 共222軒,人 数1,003,本 百 姓76,相 名 百 姓45,名 子15,間
人10,下 人 ・下 女 及 び そ の家 族192で,相 名 百 姓 ・名 子 層 の独 立 化 の傾 向が
うか が わ れ るけ れ ど も,一 方 では 下 人 下 女 を 従 え隷 農 主 的 性 格 を 持 つ 大 規 模 経営 が未 だ残存す る。
所が寛文10年(1670)山 田郡六条村盾道帳に よれば,第3表 の如 く1町 前後保有農が大半 を占め,独 立 自営小農民層が村落社会 の中核的地位 を占め るに至 った と推定 され る。次 で元文4年(1739)に はわずか に階層分化 の傾 向が認め られ,寛 政12年(1800)に は恐 ら く商品作物栽培 の発展 を通じて階 層分化が進展 し,村 内外 に寄生地 主の輩出が見 られ,一 方 では3反 以下層 及び無高層に よる小作農経 営 の成立 が推 定 され る。
讃 岐に於ては水利権 の私有=水 ブニ(水 反
別)制 の存在を通 じて,地主層 に よる水利組織の掌握や水反別 の不平等性(地
主層に有利)が 強調 され る事 が多い。 筆者 もこれ等の事実を全面的に否定す る
わ けではないけれ ども,紙 面 の都合 で詳述 を避 け ざるをえないが,水 反別 の不
平等性 は階層 間の不平等 と言 うよ りはむ しろ地域 間の不平等 と言 う性格を よ り
強 く持 ってい ると言 う点を強調 してお きたい。 そ して寄生地主制下にあ って も,
共 同労働組織を通 じて常に水利施設 を維 持 し配水の実際に当 ってきた のは,耕
作 者 自体 であ った事 を無視 してはな らない と考え る。
大字毎 の代表者 とか,大 字限 りの村人 の会 合 とか,我 が 国の他地域 で認め られ藩政村 の名 残 りは ここでは ほ とん ど認め られず,た だ氏神 を同 じくす る集 団 としての意 義を持 ち続けた にす ぎない。 (2)免場(部 落), 各 藩政村(大 字)は 数個 ない し十数個 の 「免場」 と通 称 され る部落 か ら成 ってい る。免場 は戸数30~60戸 程度 であって,藩 政村 の規模 が大 きいために よ り下位の単位た る免場 の分立 とその機能 の強化 が生 じた と考 え られ る。


(3)宗教的諸組織 前述の よ うに 「村」 を統一 す る氏神 の存在が あ り,そ れ をめ ぐって宮座制類似 の組 織が見 られたが,そ れ も畿内に見 られ るよ うな封鎖 的な ものでは なか った。一 方,村 の寺 と言 うべ きものは ここでは認め られず, 住民の大部分 を占め る真宗 門徒 の壇 家関係は,村 内外 の寺 々に著 しく交叉 した 状態 であ った (4)本分家関係 本 分家の結びつ きは他地方 で見 られ る如 き強固 なものでは なか った し,同 族 団的機能 をほ とん ど欠除 してい る。 同族的ないしは地縁的なユイの如き労力交換の組織 も伝統 的に行われ なか った し,地 主-小 作関係 もた ど り得 る限 りでは小作権 の強固 さの故に小作米 の収取 関係に限定 され ていた。
以上述べた如くいわゆる 「自然村 」として描写されるべき 「ムラ」はここでは
見 出す事 が出来ない。村落共同体的な組織や規制力や精神を,藩政村(大字)にも
免場(部落)にもあるいはその他の諸集団にも,明確な形で見出す事は不可能である。
各水源 の水掛 り地域 は明確 に区分 され てお り,各 水掛 り地域 に土地を耕作す る
者 に よって施設維持 と配水 のための水利組織が夫 々成立 してい る。既 に述べた
よ うに水掛 りと土地 との結 びつ きにおい ては土地所有者 よ りも耕 作者に よる水
利組織を重視せね ばな らない。例えば ここで も出役 としての溝 ざらえは このよ
うな耕作者に よ って行 われて きた ので ある所 で,こ の 地域 で も 「耕作 の強
」は,主 として池 か らの田植水の分配慣行 を通 じて,田 植 期間の強制 と して
もた らされ る。 しか し経営耕 地の集団化 と,一 方 では条里 区画に沿 った水路網
の発達に よって,各 農家はわずか1, 2の 水掛 り又 は1, 2の溝掛りに属す るにす ぎず,
混在耕地制 か ら帰結 され る如 きムラ組織 的な強 固な水利共同体を成立せしめる契機
 に欠けている。
を否定し,各農家の経営耕地の相対的独立性を促進し,強固でムラ組織的な水利共同体を成立せ しめ ない。土地 の良否に よって区画 され貢租単位 とな る「免」 は,水 利組織を支 える水掛 りとは整 合 しない。属人的に区分 され た 「免場」 も 知 り得た限 りでは水利組織や貢租単位 とは一致 しない。藩政村は氏神 を通 じて 応 の精神 的統一を保ち,村 役人 に よって治め られた藩政 の最下部単位 ではあ ったが,免 場 や時には水利組織 の大 きな連合 体 と しての意味を持 ったにす ぎな か った とも言え る。村 も又そ の下 の免場 も,お そ ら く散居制に基づいた区画設 定 の経緯 と,散 居 に よる各農家 の相対的孤立性 の故 に,つ いに強固な村落共 同 体 とは な りえなか ったのであ る。 「共同」は その契機毎 に ズ レた形 で,従 って 相互に強め あ う事 な く存 在 したにす ぎない。 



【アヘンアルカイド系麻薬】










【参考:那賀川平野「農」の礎】



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